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コル(フランス式上昇ピストンホルン)の歴史1 追記あり

この記事は修正のうえ別ブログに移しましたので、そちらをご覧ください。このページも一定程度経過した後クローズします



この記事のオリジナルは20160811に記載されました。

20170916 関西のホルン奏者の方から貴重なお話を頂き、確認しましたところ、Fシングル上昇ピストン式の使用開始が1849年と確定できましたので、追記を赤字で致しました。


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フランスにおけるコル(元来はフランス語でホルンという意味だが、転じて日本ではフランス式のピストン上昇ホルンを指す事も多い)の歴史について簡単な説明をまとめておきたい。


今回はその4回シリーズの1回目として「いつからパリはピストン式コルを採用していたか」についての簡単なメモである。フランスではなくパリ、としたのはフランス国内でも地域差があるからである。


パリにおける最初のピストン式コルの登場は1820年代、メフレの2ピストン式ホルンだ。1番2番ピストンの機能は現在と同じであり、ハンドテクニックと組み合わせで使われていた。この試みは一旦1850年代には終わる。


メフレはパリ音楽院に新設されたピストンホルン科(コルアピストン)の教授であった。どちらかという低音奏者であり、倍音の関係上、低音奏者の方がピストン付きには最初に興味をもったのだと思う。このピストン式にはパリ音楽院開設以来存在していたコル(ホルン)科(当時はナチュラル)の教授だったドゥプラも興味は持っていたが、採用する事はなかった。つまりパリ音楽院としてのメインはあくまでナチュラルのクラスであり、コルアピストンは傍流だった、という事だ。メフレのクラスの後任はおらず、結局彼の引退時にクローズされる。ここでピストンは間違いなく開発されたのだが、その後の歴史と続いているのかは、判断が難しいところだ。


パリ音楽院のコル科の後任教授であったギャレは1840-60年代の在任中において、ピストン付きは採用していない。更に後任のモア(ジャン・バティスト通称ヴィクトル)でさえもピストンを採用していないどころか、ナチュラルでありとあらゆる調を吹く事を可能にし、ピストンの採用からはむしろ遠ざかっていたようにも思える。ギャレ(1828-1843のソシエテソロ、その後パリ音楽院教授)、メンニャル(1828-1853ソシエテ、1844からソシエテソロ? 1847-1853正式なソロ)、ガリーグ(1850-70頃の有名なオペラのソロ)、ヴィヴィエ(ソリスト、ナポレオン三世の顧問弁護士)、モア(1854-1862ソシエテのソロ、そのあとパリ音楽院教授)、ルソロ(1828ソシエテ入団、1864-1867ソロ)、バノー(1847ソシエテ入団、1867?-1877ソロ)、ショシエ(1870-1890年代に活躍したソリスト、本来は1891-パリ音楽院教授に就任予定だった)等のナチュラル高音奏者(コルアルト)が、実際のところは1820-1870年代には本流であり、低音奏者が徐々に感じていたであろうピストンの採用の必要性には目もくれず、ハンドテクニックによるヴィルティオジティの追求に勤しんでいたかに思える。


このような歴史の中で、メフレ以降の断絶の後、いつから現代につながるピストン式コルが「ついに」採用されたか、の厳密なスタートの年代は特定できない。というのも、パリでは、デジタルにナチュラルからピストンに変わった訳ではないからだ。最初はナチュラルホルンの替え管(クルーク)の一つとしてピストン付き換え管(クルーク)を採用し、通常はナチュラルで演奏しながらだ。ワグナーのような場合には、そういったピストン付き換え管を組み込んで使っていたという事が1870年位からされていたようであるからだ。保守的なオペラやソシエテ(オペラやオペラコミークという公務員としての奏者が週末、ソシエテ、パドルー、後年のコロンヌやラムルーで演奏していたから大抵は兼務である)では比較的ピストン式の全面的採用が遅く1890年代となるが、パリ音楽院の授業でピストン式が採用された時期はもっと遅い。


1878-95年にバノーの後任としてソシエテのソロだったブレモンは、1891年のパリ音楽院ホルン(コル)科教授選にナチュラルの維持派として出馬し、ピストン派だったガリーグ息子、多重ナチュラルとでもいうべきオムニトニーク使用のショシエと教授のポストを巡って争った。投票ではナチュラルは採用されなかったものの、紆余曲折の末、結局パリ音楽院教授になったから1895年に「必要悪」としてピストンを採用し1903年までは併用が続く。(数年遅れているが、ハンドテクニックを併用しているヴィラネルが試験曲として書かれた1906年にはまだハンドテクニック需要があったし、1910頃のトゥールーズのオーケストラでまだナチュラルを持った奏者がいたのを見た)しかしながら、ブレモンは途中から積極的なピストン推進者になったようである。(ちなみに彼はレフティだった。)


従って一般的にはおそくても1895年頃までにに、パリのコルニストの使用楽器は、まずは「換え管」の形で暫時「状況によってピストンありき」というような形で切り替わったと認識している。もちろんこのピストンはFシングルであり、上吹きは3番上昇、下吹きは下降であることが多かったようだ。ある時期からはしかし下吹きも上昇を使うことが多くなったようだ。


この「換え管」にピストンを組み込んだ楽器を「ソーテレール」といい、最初はすでに述べたように、ナチュラルに着脱可能なクルークとしてピストンを組み込む形であったが、やがてピストンのシリンダーは本体に固定されていく。


このタイプではクルークとピストン本体の切り替えによって上昇(実質G管)と下降が選択可能になるのだが、当初は下降が主流であったと思われる。


このように、ピストン付きコルは、メフレの楽器が一度途絶えた?後にナチュラルの「ピストン付き(ナチュラルの)換え管」として登場したわけだが、ごく初期は下降のみであったと思われる。なぜか?3番上昇とは、あらかじめ3番管に音を通し1音下げた状態にしているわけで、その換え管を挿入しただけで開放でも1音下がるという面倒なシステムは採用しなかっただろう。まだ換え管の時代には、ピストンを押しただけ下がるという方が簡単で合理的だ。


それでは3番上昇ピストンの明確な登場はいつだろうか?これが意外と早く、そしておそらくはこうしたナチュラル換え管として登場した訳でない。最初の3番上昇は「専業のコルニスト(ホルン奏者)」のように右手で音程を作るのではなく、他の楽器からの持ち換え用として、すでにピストンの操作がなれた楽器の奏者のために作られた可能性が高い。


最初のFシングル上昇式ピストンの楽器は、1849年にアラリHaralyによって作られた。献呈先は当時のオペラ座の「コルネット(コルネタピストン)」のソリストであり、パリ音楽院のコルネット科教授(アーバンの前任)かつギャルドの副指揮者であった、イッポリート・モーリーである。


おそらくは、コルネット奏者であった彼がコルに持ち替えて吹けるようにしたものではないだろうか?当時はまだコル奏者達はナチュラルの使用がメインであったので、もしかすると軍楽隊などの持ち換え用として、他の金管奏者でも吹けるようにという形で、徐々にピストン式が発達したのかも知れない。


1950年代に書かれたフランスの書籍では、このFシングル上昇式ピストンは、ヴィエルモによって発明されたと書かれているので、「コル奏者」として上昇ピストンを最初に恒常的に使ったあるいは改良をしたのは彼だったのかも知れない。私は、ピストンの固定使用はすでに1870年代には軍楽隊や一部のオーケストラでは常態化していたが、なかでも上昇ピストンの恒常的使用は1880-90年あたりのヴィエルモではないかと、現在のところ推察している。なお、上記のアラリの楽器についてはダニエル・ブルグ氏の資料で確認をした。


ヴィエルモによって少なくとも流布されたこの上昇管楽器を、当時のフランス人は「フランス的」な楽器とみなしていたようだ。なお、この時代の楽器も含めてソーテレールと呼ぶかは、(アメリカではそう呼んでいる記録は確認したが)、当時のフランスでどうだったか確実な資料はまだ入手していない。しかしわかりやすい言い方だとは思う。)


いずれにしてもフランスで主となった楽器は、フランスタイプのナチュラルにピストンを組み込んだので(つまりピストンの違い以外は当時のイギリス式と同じ)、ドイツのようにロマン派に合わせて幅広い音を得るために、いち早く本体固定のロータリーにしてボアを広げるという歴史は経なかった。従ってピストン式の基本形はナチュラルから変わっていないというのが、コルの特色ではないかと思う。なお、ラウーの後継たるラウーラバイエ、ラウーミローが、新たに基本部も作っていたのかピストンユニットだけ作っていたのかは確認できていない。


by corapiston | 2017-09-16 23:11 | Cor (Horn)

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by Yukihiko HubertOYAMA